兼松株式会社Kanematsu Corporation.
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失敗の美学〜ベテラン編〜

商社のファブレスメーカービジネスへの挑戦
~競合アジア諸国の評価見誤りと挫折~

西川 真史 State of California Sunnyvale駐在
1995年入社/社会学部卒
現在は、アメリカに赴任中。入社時は建設、その後は飼料、電子デバイス、海外駐在、車両・航空、経営企画室、車両・航空統括室と、多くの部門を経験してきた。様々な部署を経験してきた西川だが、印象に残っている一番の思い出は、2015年に実施した「兼松大運動会」らしい。(西川は総合司会を務めた。)

01モデルチェンジ

2000年代前半、私は無線機部隊に所属していました。無線機はトランシーバーとも呼ばれ、そちらの言い方がよりなじみ深いかもしれませんが、鉄道や警察などで使われる携帯型や、トラックやタクシーなどで使われる車載型、果ては船舶に使用される海上無線機が我々の取扱い製品でした。顧客は全て海外の有名通信機器メーカーで、設計段階から我々が携わり製造までを任されて顧客ブランドの商品として出荷するODM(*1)方式で受注し、一方我々は製造をマレーシアの協力工場に委託するFabless(*2)形態を取っていました。

最大顧客は米大手電子・通信機器メーカーであるモトローラ社で、その本社のあるシカゴに私の部隊からも駐在員を一名派遣していました。兼松シカゴ店が、モトローラから流れてくる開発、出荷、クレーム等の情報発信窓口となって、日-米-マレーシア間でのやり取りが繰り広げられる毎日でした。「アウトソーシング」という概念が急速に普及してきたこの時代、顧客であるメーカー各社は製造コストの圧縮や生産効率の向上を目的に、設計・生産の外注化を進める、大きな時代の流れがありました。このビジネスチャンスをものにするべく、我々は無線機の設計・製造に知見のある日本人技術者を集めて傘下の開発会社を設立し、生産は製造コストの安い海外に委託するスキームを作り上げることで、モトローラの無線機事業の歴史において、第一号のアウトソーシング先となったのです。

2007年に米国・シカゴ駐在となり、モトローラの一次情報窓口となった私は、この事業をさらに大きくする機会を窺っていました。それは、ODM第一世代機がモデルチェンジとなるタイミングです。シカゴ赴任当時、既に全世界に向けて累計100万台以上が販売されるベストセラーとなっていた第一世代機ですが、リリースから5年程経過しており、第二世代への切り替えが予想されていました。お客様が販売者に対して見積や仕様条件の提示を求めることを「引き合い」と呼びますが、私はその引き合いの機会を逃さぬよう、兼松の名前を今以上に相手にすりこむべく、日々モトローラの担当者に電話、メールでコンタクトを続けました。

そして、いよいよ引き合いの入手に成功し、日-米-マレーシアをまたいでの見積作業が始まりました。どうやら引き合いは我々だけに送られたわけではなく、当時台頭しつつあった中国や韓国の競合も加わるコンペ形式となるようでした。兼松のコンセプトは、“値段は従来価格を下回りつつも、従来機になかった機能や使いやすさを取り入れた、cost down & value up を満足させる機種”、に決定し、五百点にも及ぶ部品一点一点の調達コストの見直しが行われ、またこれまで今日この日のために技術者が練りに練ってきた、既存寸法を維持しつつ従来以上の機能を持たせるための設計を仕上げにかかりました。このコンセプトの根拠として、一つには、アジアの競合と価格競争を繰り広げても、人件費を含め絶対的なコスト優位にある競合相手に“価格だけの勝負”で勝ち続ける事は難しいこと、また二つ目には従来機におけるこれまでの開発のやり取りにおいて、様々な要求がモトローラから来ており、顧客要求に沿いながらも、価格競争を避け事業の収益性を確保することができると考えたことがあります。

我々には自信がありました。この5年間の揺るぎない実績。極めて短期間に従来機が100万台を突破した、ということで兼松と委託工場は表彰されたばかりでした。モトローラにとっての無線機ODM第一号を成功に導いたのは兼松。そんな自負と、これまでの開発を通して培ってきた信頼関係による、モトローラ内部からの兼松を押すバックアップの声への期待もありました。コンペの競合となる中国、韓国などのアジア企業と比して、日本の技術者がもつ開発力には一日の長があり、多少の価格差では埋めがたい性能優位がある、という読みもありました。

02勝負の行方は

見積提示の締め切りが近づいてくる頃から情報戦が始まりました。モトローラの担当は兼松がいくらで見積を出すつもりなのか、わかるものなら知っておきたい。一方私は、モトローラのターゲット価格や、競合がどんな価格で出してくるのか、について少しでも情報を掴みたい。会話は時に押し問答であったり、禅問答であったり。しかし、相手は米国流ビジネスマン。ビジネスにおいてはドライであるとともに「フェア」であろうとする傾向があり、もちろんそのような裸の情報を出してくれたりはしません。

そうしてついに見積提示の日がやってきました。私はモトローラ本社を訪問し、従来機を上回る性能や使い勝手がどれほど消費者満足に貢献しうるか、またそれによるモトローラへのメリットはいかほどかについて説明し、価格メリット以外の付加価値を強調しました。

結果が出るまでには数週間を要し、胃に穴が空くと感じられるようになった頃、私に届いた通知は衝撃的でした。「他社と本件について継続協議します」。

私は自分の耳を疑いました。安い提案ではない。だがそれは1~2割の価格差であれば性能面で優位に立ち、顧客要求を熟知する我々が選択される、そういう読みがあってのもの。しかし競合は、実は予想を遙かに超える低価格で応札していたのです。「やられた!」一瞬にして頭の中が真っ白になりました。

私は顧客に再提案のチャンスを懇願しました。「フェア」を信条とする米国流ビジネスの世界において、一度決定した業者選定の結果を覆すことは容易ではなく、また競合の価格レベルも、「遙かに安い」ということしかわからない状況でした。それでも何とか再提案の機会をもらい、価格レベルについてもおおよそのところまで聞きつけることに成功し、我々は設計、製造、物流の全てを再度検証し、価格追求型の提案を行いました。我々の再提案は競合に肉薄し、モトローラ社内で二度にわたる再審議を経る程の粘りを見せました。しかし、最終的に顧客は当初の意思を変えることはありませんでした。同じ条件であれば、先にその条件を出した方を選択する方が「フェア」である、という判断も働いたのかもしれません。いずれにしても、次世代機へのモデルチェンジ案件は失注に終わったのです。売上にして年間20億円が期待できる案件でした。

その後の調査により、競合他社からのあまりにも破格の見積提示を受けたモトローラは、我々を待たせていた数週間の間に社内会議を繰り返し、性能を比較的重視するこれまでの方針を大きく転換して価格メリットを取ることを優先させ、技術力についてはモトローラからも支援をしつつ競合の会社を育てていく方針にした事がわかりました。また、リーマンショックを端緒とする、当時の世界的な停滞ムードの中で日本もまたその例に漏れず、リストラの波にもまれ日本企業を退職した技術者がアジアの競合各社に迎え入れられ、結果として日本の技術力が流出していたことも関係していました。

03失敗から次の挑戦へ

こうして私の勝負は終わりました。コンペに落選するという事は、直接的な損失を被る事とは違いますが、機会利益の逸失という意味では会社に与える大きな痛手には違いなく、また今回の話は大型案件であっただけに、その悔しさはより一層、辛く、苦い記憶として私の心に刻まれることとなりました。

そんな私にも、その後のキャリアで、経営企画室で経営の舵取りをサポートする役目や、車両・航空統括室でのマネジメント経験、そして現在は海外駐在という様々なチャンスを与えてくれたことに、感謝しています。こうして私の失敗を、それも美学として取り上げる兼松の懐の深さ、それが兼松のよさであり強みであると言えるでしょう。挑戦する勇気を受け止め、そして送り出してくれる土壌が兼松にはあり、営業から経営企画に移った今も、その土壌の上で新たな「事業創造」に向かって挑戦を続けているのです。

(*1)ODM(original design manufacturer):相手先のブランド名で製品の開発・生産を一括して請け負うこと
(*2)Fabless:自社で工場を所有せず、委託工場に製造を委託し製品の供給を受けること

Others Mistakes 私たちの失敗

【企画部】30代/男性

社外の業務改善プロジェクトの際、理論的に正しい事を、『正しいんだからやりましょう』というスタンスで推し進めたが、なかなか浸透しない、外様のままではうまく伝えられない。キーパーソンの理解をしっかりと得て、彼の口から伝えてもらい、ようやく浸透。正しいだけでは伝わらない、『伝え方』の大切さを知りました。

【企画部】30代/男性

トレーニー先のNY、商社会、日本居酒屋。NY商社会では新参者だった兼松。名を刻んでやろうと各商社の若手メンバーを煽りに煽って、煽りまくって…気付けば翌朝、自宅のベッド。先輩と計画していた旅行の朝。グランドセントラルまでタクシーで急ぎましたが、あまりの嘔吐感、已む無く、先輩にお断りの電話をしました。

【車両車載部品】30代/男性

入社2年目の終わりに、中東からお客さん7~8人が交渉で来日した時の事。事前に全員イスラム教徒という事は分かっていたので、ハラルフード(イスラム法上食べられる食材)のレストランで食事をした後、秋葉原→100円ショップの鉄板お土産コースを回り、ホテルへ案内しました。「スパは無いのか?」と聞かれ、さすがに温泉は無かったのですが、大浴場が付いていたので場所を教え、お祈りの為に西(メッカ)の方角も教えて解散。「おし、完璧だ」と安心して帰りました。ところが、翌日ホテルに迎えに行くとみんな一様に不機嫌そうな顔。「お前は一番大事な事を言い忘れた。スパでパンツを脱がなきゃいけないなんて聞いていない!知らずに入って大恥をかいたじゃないか!」と。しまった!と冷や汗をかいた瞬間、みんな大爆笑。怒っていたのは芝居でした。その時は笑い話で済みましたが、お客さんが恥をかいたのは事実。文化や宗教といった常識の違いは、どんなに気を付けたつもりでも足りないんだなぁ…と実感しました。仕事でも思いが通じず歯がゆい思いをしますが、この経験を思い出して「自分と相手の常識は違うんだ」という事を日々自分に言い聞かせています。

【エネルギー部】40代/男性

今から少し昔、私が船舶用燃料の販売担当をしていた時のお話です。
とあるお客様にシンガポールで船舶燃料を販売させて頂いたのですが、弊社が燃料を供給した船舶が洋上でエンジントラブルを起こしてしまい、あわや航行不能寸前まで陥るかの、大問題となってしまいました。
当時担当の私はサプライヤーと原因を協議、第三者検定機関もまじえて喧々諤々するも、商品は国際基準で定められた規格をクリアしており、(法的には)供給した商品の落ち度が見当たらない状況。必要書類をそろえ、慎重にお客様に状況ご説明したところ、まさにその船が近々、川崎港に寄港するので、船長が是非私と会って話しがしたいと言っている由、申し入れを頂いてしまいました。
お客様の船がトラブルで大損失を被っているのは事実で、断るわけにもいかないのですが、船長は船長室(密室!?)で私と話がしたいとのご希望。
当時の課長にも相談、「行って来い!」の一言。課長としてその発言をされた決意を胸にひしと受け、港で手続きをして船舶へ乗り込みました。
お客様にしたのと同じ様に、必要資料を携え、自らの考えうる限り丁寧に船長に説明させて頂きました。いくつかの会話のやりとりの後、船長は今回のトラブルで破損したシリンダーの部品を片手で宙に上げ、もう一方の片手でコーヒーを口元まで掲げたかに見えました。次の瞬間、もしや(!!)と覚悟いたしましたが、船長はにっこり笑顔。
「仕方ないよね」
後からお客様から伺った話では、私が船長室へお伺いすると連絡させて頂いた時点で、今回の件は不問にすると決められていた模様です。
その後、そのお客様とはさらに懇意にさせて頂き、「失敗(トラブル)は成功(お客様との関係強化)の元」となったお話でした。
だいぶ真面目な話しになってしまいましたが、会社での個人的なしょうもない失敗は数知れず、、、とてもここでお話できるものではないかと、、、(苦笑)

【半導体第一部】30代/男性

某大手メーカーで納期トラブル発生、請求問題の可能性ありの一大事。
サプライヤーに物を受け取りに何も持たず台湾へ。日本にトンボ帰り。
あ・・・荷物の一部を台湾の空港に忘れた。。。

【電子機器部】50代/女性

これまで「私、失敗しないので」と社会人生活を送ってきましたが、そんな私の唯一の失敗談をお話したいと思います。
それは入社3年目のこと。初めての海外出張先が中国に決まり、上司からは「現地の水には十分に気をつけるように」と言われていました。現地でも自分では水に気をつけていたつもりでしたが、やはりお腹を壊してしまい、ふらふら状態での帰国となりました。
翌日になっても、お腹の調子は一向に回復しませんでしたが「出張の報告だけはしなければ」と電車に乗り、気力を振り絞って会社に向かいました。しかし、食事が取れなかったことが原因だと思いますが、満員電車の中で貧血を起こし、途中駅で下車。そこの駅員の方に不調を訴えたところ、親切にも駅員室のベットで休ませてくれました。地獄に仏とはこのことです。そこまでは良かったのですが、横になれてほっとしてしまったため、何と不覚にも寝入ってしまったのです。そして次に気がついた時は既に『お昼』・・・。
その頃、会社では初出張の帰国翌日に何の連絡もなく出社してこない私を探して大騒ぎとなっていたことを後で知りました。『あぁ、無断遅刻』・・・今でも夢に出てくることもある若かりしころの苦い思い出です。
ちなみにその後の海外出張では一切失敗していません。ですから今は自信を持って言えます。私の決め台詞は「I never failed.」(笑)

失敗の美学〜若手編〜